苦悩の日々の連続となった2回目の教員生活
大沢:
まさに激動の20代ですね。連載漫画のように辰野さんの次の章が気になります。
辰野:
タスマニアで農業をしていた年の冬に、以前勤めていたカナダの日本語学校の方から突然連絡があったんです。「今なにしてるの?大阪で大変な学校があるので是非力を貸してほしい」という支援の依頼でした。
いずれは教員に戻りたかったので、即返事をして日本に戻ることにしました。時間もなかったので、タスマニアから帰国する足でそのまま大阪の教育委員会へ面接に行きました。スーツなんて当然持ってなかったので、タンクトップにジーンズみたいな格好で行きましたね(笑)。
無事採用され、早速大阪のとある小学校へ赴任しました。3学期も終わる2月の中旬頃でした。赴任して最初にびっくりしたのは、4年生の家庭科の授業でした。
焼きそばを作る授業だったんですが、なぜか既に切り分けられた野菜が並んでいて、あとは炒めるだけの授業だったんです。なんで野菜を切らないのだろうか?と思ったのと、そこでは児童8グループに対して先生が8人もいたんですよ。
後で知りましたが、当時の子たちは何をしでかすかわからないため包丁も渡せないし、先生も1人ではとても授業が成り立たなかったんですね。実際にそのクラスの副担任としてサポートに入ったときは、机に土足であがったり、授業中に紙飛行機を飛ばしたりとこれは大変なところに来たなと思ったことを鮮明に覚えています。
大沢:
即断即決で大阪に赴任することになり、さすがに後悔はなかったんですか。
辰野:
自分でもびっくりするくらい切り替えが早い人間なので、特にそうは思わなかったですね。ある意味、大阪も”海外のひとつ”くらいの感覚でした。
実際に赴任したときの印象を例えるならば、少年漫画『ろくでなしブルース』の世界のようで、5年間勤めましたが初めて教員を辞めたいと思うくらい大変でしたね。
普通の公立学校ではあまり無いのですが、2年生の担任になったらそのまま6年生まで持ち上がったんです。担任が代わるとその都度問題が起こり、落ち着いて授業ができないんです。学校のガラスが割れるのは日常茶飯事でしたし、筆箱・鉛筆がない子、朝ごはんを食べていない子もクラスに何人もいました。不登校の児童もクラスに4名程いましたから、やはり落ち着いて学びに向かい合える環境とはいえなかったですね。
教員としてはとにかくそれが悔しくて、子どもたち全員に目を向けられないことが苦しくて苦しくて仕方がありませんでした。問題を起こしている子ばかり見ないといけないので他の子が見られない、でもその子にも寄り添わないといけない理由がある。本当に葛藤の日々でした。
立ち戻った自分自身の原点
大沢:
八王子と大阪、教員としてある意味両極端の環境を経験されたんですね。そうした壮絶な教員生活を過ごしながらも、将来やりたかった英語教育への熱は持ち続けていたんですか。
辰野:
教員を辞めたいという思いがありながらも、同時に海外で英語に触れたいという思いは変わらず持っていました。そのため、毎年夏休みにはアメリカに渡り、サマースクールの手伝いや趣味の時間に充ててました。
その際、アメリカの日本語学校から「こちらで働きなよ」と誘われたこともありました。正直悩みに悩みましたが、最終的には担任の大阪の子どもたちの顔を思い浮かべお断りしました。この子たちは逃げたくても逃げられない環境にいる。一方で私は望めば好きな環境に行ける。そんな不公平に疑問を持ったのと、元々なんで教員になったんだ?と改めて自分の原点を見つめ直したんです。
私が教員を目指した原点は、夢をもちながらもカンボジアという国で苦しんだり環境のせいでうまくいかない子どものため。にも関わらず、この状況下で気持ちが動かされてしまうのは変だよなと。大阪で最後まで責任持って担任をやり抜きたいと改めて決意し、日本語学校の件は断ることにしました。
大沢:
長い年月が経ったりいろいろな経験をすると、人って原点を忘れたり想いが変わったりしますが、そこでスタート地点に立ち戻れるのは凄いことです。
辰野:
6年生を無事卒業させ「さあ海外に行くぞ」と思っていた矢先、新型コロナにより海外への渡航ができなくなってしまいました。本当ならアメリカで大学に行き、進んでいるといわれる欧米の特別支援教育を勉強したかったんですが、残念ながらそれも叶わず。いろいろ考えた末に、地元の福島に戻ることにしました。
福島に戻り仕事をどうしようか考えていた時、求人に「10万円給付」の仕事を見つけました。新型コロナで国民の皆様にお支払いされたものです。「今までやったことのない行政の仕事をやってみるのもおもしろそうだな〜」「行政の現場も見てみたい」との好奇心からチャレンジしてみることにしました。それと同時に地元のいわき市教育委員会にも講師登録をしていました。
さらに英語の勉強も続けたかったので、私がイメージする英語を教えてくれる先生がいないか探していたところ、地元のサイトである方を見つけました。ワシントン大学やコロンビア大学院をご卒業され、英語の4スキル(リスニング、スピーキング、リーディング、ライティング)も堪能な方でした。
大沢:
新たな仕事にチャレンジするなかでも、ぶらさず英語学習を続けるために人脈を広げていったんですね。
辰野:
行政の仕事は5月中旬から9月末まで勤務させて頂き、そのタイミングで教育委員会から「担任をしてほしい学校・クラスがある」と連絡を頂き、10月から年度いっぱい担任を勤めました。こういった流れの中でも英語の勉強は続けその英語の先生に途中まで無償で教えて頂いていたのですが、さすがに気が引けてしまっていました。
それでも、その方との交流を続ける中でその先生が趣味で「ブルーベリー」をやっていることを知りました。後日、そこを訪れると趣味レベルとは言えない広大な農園が広がっていました。聞くと「趣味でやっているのでブルーベリーはほぼ90%は自然に帰っている」とのこと。「もったいない!」と思い、授業料をお支払いする代わりに、農園のマネージメントを任せてもらうようにしました。
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