山﨑 路雄 Michio Yamazaki
操友体操クラブ 代表
埼玉大学教育学部小学校教員養成課程体育専修卒
日本体操協会体操競技公認審判員男子2種・女子3種
日本体操協会トランポリン普及指導員
日本体育協会スポーツリーダー
中学・高等学校保健体育科教諭1種/小学校教諭1種/幼稚園教諭2種
今回のスクスクでは、元体操選手であり現在は体操クラブの代表として体操競技と器械運動の普及・指導にあたる山﨑路雄さんにインタビューを実施。体操を通して子どもたちの「考える力」を育む理由や、学校教育と連携した教育の必要性などについて伺いました。
操友体操クラブについて
大沢:
まずは、代表を務められる操友体操クラブの概要を教えてください。
山﨑:
埼玉県の川越市とさいたま市を拠点に活動している体操クラブです。川越市ですと川越運動公園総合体育館と脇田新町にある倉庫の2箇所、さいたま市では市立土屋中学校の体育館、これら計3箇所で活動しています。対象は、幼稚園生(年少)から概ね中学3年生までの子どもたちで、コースは大きく5種類あります。
・幼児・小学生合同クラス
・小学生クラス
・選手育成クラス
・個人レッスンクラス
・チアダンス専用アクロバットクラス
公共施設も活用し、出来る限り多くの子どもたちに体操に触れてもらえるようにしています。
大沢:
山﨑さんが体操クラブに携わったきっかけを教えていただけますか。
山﨑:
他の種目でもそうだと思いますが、大学4年生の引退時期まで一線でスポーツをやっていると学業や将来を考えることに時間を割けず、就職活動にも苦慮するという実情があります。私自身も大学で最も大きな大会であるインカレ(全日本学生選手権)まで現役を続けていたので、教員免許は取得しましたが十分な学習時間を確保できず、教員採用試験に合格する事ができませんでした。また、就職活動もできなかったので、就職先が決まらないまま大学を卒業せざるを得ませんでした。
そこで、在学中に体操指導のアルバイトをしていた体操クラブに、そのままアルバイトとしてお世話になりました。元々このクラブは一般の子どもたちが体操を楽しむコースだけでなく、体操選手を育成するコースもありましたが、施設の環境上選手は充分な練習が出来ないでいました。
そのため、選手や保護者から子どもたちが充分に練習が出来る環境を作ってもらいたいと相談を受け、当時の埼玉県立大井高校(現ふじみ野高校)の体育館の学校解放を利用し、大井高校の先生と連携して体操競技の指導を始めました。これが、体操クラブの指導に関わり始めたきっかけです。今から20年近く前の1999年頃になります。
ただ、公共施設を活用したボランティアだったこともあり、それだけで生活するのは難しかったため、2002年に思い切って独立することにしました。独立後まずは、母校の埼玉大学の学校解放を活用して選手を指導するのと並行し、川越運動公園の総合体育館で一般コースを創設し子どもたちへの指導をスタートさせました。その後2017年に、現在も活動拠点としている川越市内の倉庫を借用しコースを拡大、充実させています。
偉大な恩師との出会い
大沢:
山﨑さんご自身はいつ頃から体操を始められたのですか。
山﨑:
私が始めたのは小学6年生の時で、今と比べると少し遅かったですね。今ではトップ選手を目指そうとすると小さな頃から専門の指導を受ける必要がありますが、私が始めた当時は中学校の部活動から体操競技を始めてもオリンピックを目指せる時代でした。また、私が住んでいた近所にはジュニアクラブがなかったので、小学6年生で体操のスポーツ少年団に入団したのが体操との出会いでした。
その後中学校では部活動をやりながら川越市立高校体操部にお世話になったり、川越市内の中学校の先生が創設された体操クラブにも通いつつ、週末はその体操クラブの先生のつてで大井高校体操部の練習にも参加させてもらいました。そういった縁もあり、高校はそのまま大井高校に進学しました。ちょうど私が進学する2年前から体育科ができ、体操競技の専用練習場もつくられ力を入れ始めたところでした。高校卒業後は埼玉大学に進学し、引き続き体操選手として研鑽に励みインカレにも出場することができました。
大沢:
まさに選手として一線で活躍されてきたわけですが、山﨑さんがジュニアクラブを創設し子どもたちに体操を指導したいと思うようになったきっかけは何だったのですか。
山﨑:
クラブを創設したきっかけは、先ほども少しお話しした通り本格的に選手を目指したいという子どもたちや保護者の方からの依頼でした。どうにか自分の経験を活かして、良い選手になって欲しいという想いで立ち上げました。この時役に立ったのが、埼玉大学で小学校教員養成課程を学んだ経験でした。学校教育に関する知見を活かすことができたからです。
埼玉大学は埼玉県の教育界をリードする場所ですし、附属には埼大附属小学校と中学校があり、年間を通して沢山の研究授業がなされています。大学の教育学部で学んだ私がスポーツ指導の柱が学校教育になるのは必然的だったと思います。このときの恩師吉田茂先生は器械運動と体操競技、スポーツ運動学の領域で著名な方で、先生から教えてもらったことが後の指導の大きな礎となりました。
ただ、埼玉大学の施設を利用させて頂いていたので、私の指導法について吉田先生からは厳しい叱咤激励をもらい、当時は反発することもしばしばありました。その後一時選手コースを継続することが出来なくなり、先生の元を離れることになりましたが、暫くして吉田先生から連絡があり、白鴎大学でご自身の教員補助をしてもらいたいという依頼を受け、再び吉田先生の元で4年間体操の指導にあたりました。
吉田先生の退職後は、後任でオリンピックで金メダル含む12個のメダルを獲得された加藤沢男先生の教員補助や代講講師を4年間務めました。中高の保健体育科の教員になるための必修授業の補助員・代講講師として、計8年にも渡り教育の最前線で経験をさせてもらったのはとても大きかったです。最近では吉田先生とお話していると「お前もやっと分かってきたな。」と言われることも増え嬉しく思います。
経験を学校教育に還元したい
大沢:
吉田先生とはかなり長いお付き合いになるんですね。
山﨑:
そうですね、30年程になります。体操指導において多くの影響を受けています。私としてはこの経験を学校現場の先生方にも伝えていく必要があると思ってます。
吉田先生もご退職され、埼玉大学の器械運動や運動学の授業は非常勤の方が務められていると聞いています。要するに埼玉県の学校教育における器械運動の授業を指導する常勤の専門の先生がいないことになります。学校の先生方は研究授業の時に大学の先生を招待して講評を頂いたり、大学に長期研修で勉強できる制度があります。
しかしながら大学に常勤の先生がいないということは器械運動の分野で学校の先生方が充分な指導を受けられないまま、生徒たちに授業を行っている可能性があります。ですから私が吉田先生から受け継いだものを埼玉県の学校教育の現場に伝えていかなければいけないと考えています。
現在体操界では体操競技・器械運動学会という学会があり、一年に一回学会も開催されています。大学の先生や体操専門の指導者、通常の学校の先生が一緒に体操競技の指導法や器械運動の研究授業について発表する場となります。いた仕方ないことですが、体操専門の指導者でない学校の先生方の発表はどうしても的を射ていない部分があります。マット運動の「前転」を例にすると、体操競技専門の指導者は「前転」を「前方宙返り」の基本動作と捉えて教えます。一方、学校の先生は「前転」は「前転」で完結している為、正解が分かりません。
このように指導のポイントも違いますし、評価の観点もその種目や技ができたらよかった、という評価になってしまいがちです。器械運動の授業は、鉄棒、マット、跳び箱と3種目あるので、1種目ずつ年間で3〜5時間やったとして全体では大きな単元となります。それを専門家の意見を聞かずに授業を進めるのは難しいしですし、怪我も多くなりがちです。
私のクラブでも「バク転」ができるようなレベルの子が、学校の体育の授業で骨折してクラブを休むということがよく起きます。跳び箱を例にすると、学校では着地や切り返しの動作などを十分に指導せずに、高くとべることを評価しがちです。高くとぶために助走も増えますから、勢いよく飛んで空中で姿勢を崩せば手をついて骨折してしまうといった具合です。跳び箱は、ただ高い跳び箱をとばすことが成果にはならず、切り返し動作や着地がしっかりとできていること、膝つま先が伸びているなどの出来栄えを評価するものです。
体操競技の「跳馬」はみな同じ高さをとんで出来栄えの勝負をします。一方、学校では高くとべる子はどんどん高くとばせていってしまう。学習指導要領でも「高くとべること」を求めてはいないはずですが、どうしても「モンスターボックス」のような高さを求めてしまいがちです。
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